AvastinはVEGF(血管内皮成長因子)に結合する抗体医薬で、血管の増殖を抑制することによって癌細胞を兵糧攻めします。やがて、このようなメカニズムの薬はwAMD(滲出型加齢性黄斑変性)のような網膜血管の異常増殖が原因で起きる病気にも有効である可能性が浮上しました。wAMDは高齢者に多い病気なので、副作用リスクをできるだけ小さくする必要があります。そこで、Avastinを改良して創製したのがLucentisです。固定領域と呼ばれる部位を除去し、VEGF結合力を高めることによって、静脈点滴ではなく硝子体に注射できるようにしました。
この二剤はどちらも臨床試験が成功し、Avastinは04年、Lucentisは06年に米国で発売されました。07年第3四半期の売上高はそれぞれ6億ドルと2億ドルに達しています。
薬が難しいのは、良い薬を開発して沢山の患者に用いられるようになると、やがて値下げ圧力が高まることです。米国は病気になったら全額自己負担という人が数千万人います。高齢者や低所得者なら公的医療保障制度の対象になりますし、大抵の人が民間の医療保険に加入しているのですが、そのような場合でも最近の新薬は価格が高いので自己負担が馬鹿にできません。
ジェネンテックは所得が十分でない人のために薬を原価で供給するプログラムを用意しています。Avastinは年間の薬剤費が一定水準を超えたらそれ以上はタダという打止制も導入しました。本来の用途では価格圧力が沈静化したのですが、眼科でトラブルが生じてしまいました。
Lucentisの悲喜劇の原点は、難病の治療に目覚しい効果を持っていることです。加齢性黄斑変性は80歳以上の米国人の有病率が12%と、決して珍しくない病気です。滲出型は数の上では少ないのですが進行が早く、視力の大幅な低下をもたらします。これまでにも薬はあったのですが、効果は満足のいくものではありませんでした。普通は奏効率といえば症状が改善した患者の比率を指すのですが、wAMDのそれまでの臨床試験では、視力の悪化が一定水準以下ならば奏効とカウントしていました。薬を使っても改善する患者が殆どいなかったからです。ところが、Lucentisの治験では3割程度の患者が意味のある改善を、過半の患者がある程度の改善を達成できました。医療の大幅な進歩です。
悲喜劇の第二の理由はAvastinという姉妹品が存在したことです。Lucentisの治験成功が発表されるや否や、Avastinを代用する動きが広がり、wAMDの治療薬としてトップシェアになりました。Lucentisの発売後はやや沈静化しましたが、現在でもLucentisと同程度のシェアを持っています。
Avastinの人気の秘訣は、グラム単価が低いからです。Avastinは本来の用途では一ヵ月分が4000~8000ドル程度、Lucentisは約2000ドルで、それぞれの分野の他の新薬と比べて特別に高いわけではありません。しかし、Lucentisは少量でも最大の効果が発揮されるよう改良されていますので、グラム単価で見るとAvastinの8倍、400万ドルに達しています。
Avastinの用量は患者の体重や癌の種類に応じて調節しますので、使い残しが発生します。保存剤が入っていないので、廃棄しなければなりませんが、例えば10mg残ったとすると、50ドル分の薬が無駄になります。もし加齢性黄斑変性の治療に転用すれば、一人に使うだけで2000ドル、得をします。また、コンパウンディング・ファーマシー(調剤薬局)に行けば、Avastinを小分けしたものが一回分が数十ドルで販売されているようです。
悲喜劇の第三の理由は、規制局がAvastinの小分け・転用に厳しい目を向けていることです。無理もありません。
- Avastinこの用途ではは未承認であるだけでなく、効果や安全性を示す十分なエビデンスが存在しない。
- ジェネンテックは適応拡大に前向きではないので、将来もこの状態が続く可能性が高い。
- 硝子体に注射する薬は高い品質が求められるので、Avastinの品質管理体制も強化することが好ましい。
- 調剤薬局が小分けする段階で薬に不純物が混入する可能性がある。
前置きが長くなりましたが、これが今回の流通規制問題の背景です。
調剤薬局への出荷を中止へ
ジェネンテックは、07年11月を以って、Avastinを調剤薬局に販売するのを止めると医療従事者に通知しました。しかし、眼科医から激しい抗議を受けたため、実施を来年1月に先送りするとともに、AAO(米国眼科学会)に出席して真意を釈明しました。
それぞれの言い分は鋭く対立していますし、眼科医側の不満は流通規制問題に留まらず多岐に亘っているようです。まずジェネンテックの主張から見てみましょう。
- FDAに規制強化の動きが見られるため、流通制限を断行しないとAvastinの腫瘍学における供給体制にも差し障りが生じる懸念がある。例えば、FDAは調剤薬局に警告状を送付した。更に、ジェネンテックの工場検査に際して、眼科転用に関する懸念を表明。ジェネンテックは、35万本(2億ドル相当)以上のバイアルの廃棄処分を余儀なくされた。その多くは、眼科用薬の基準に達していないことが理由だった。
- このような事態の再発を回避するためには、調剤薬局への販売の中止はやむを得ない。販売を停止したからといって、調剤薬局が小分け品を販売できなくなるわけではない。
- ジェネンテックはLucentisの薬剤費を払えない患者のために支援プログラムを用意している。眼科医や網膜専門医とは今後も話し合いを進め協力する考えであり、長期的に良好な関係を維持することを望んでいる。
これに対して、眼科医の思いは複雑なようです。AAOでは出席者がジェネンテック側の代表者に質問する機会が設けられましたが、何時まで経っても質問をしないで一方的に意見や批判を述べる人が続出しました。
- FDAはAAOの照会に対して規制を強化するつもりは無いとの回答を寄せており、ジェネンテック側の説明と食い違っている。
- 国立衛生研究所が計画しているLucentisとAvastinの直接比較試験にジェネンテックが協力しない(薬を無料で提供しない)のは何故だ!
- ジェネンテックは供給制限後もAvastinを調達することは可能と言っているが、なぜそんな事が可能なのか?
- ジェネンテックが患者にAvastinの転用の危険性を伝える書簡を送付したことは、医師と患者の信頼関係を損なう。
- 患者より利益を重視しているとしか思えない。
問題が多岐に亘るだけに、一時間程度の議論では足りず、おそらく、どちらの側にとっても不満足な結果だったでしょう。今後も双方の考えを率直に表明し信頼関係を再構築する努力が行なわれることになりそうです。
Lucentis問題は長年の不満が一気に爆発したような印象ですが、火元は、『Lucentisの正当な価格』に関する認識の相違でしょう。現在の患者にとっては安いほうが良いに決まっていますが、Avastinの転用が続くと、今後、加齢性黄斑変性治療薬の開発がスローダウンする可能性があります。現在、Lucentisと類似したメカニズムを持つ薬が複数開発されていますが、このままだと開発中止になるかもしれません。
患者以外には関係の無い話に聞こえますが、将来私たちが滲出性加齢性黄斑変性になった時に、「あの時Avastinのオフレーベル使用にブレーキをかけておけば良かった」と臍を噛むことになるかもしれません。
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アバスチン眼内注射の恩恵を受けている黄斑変性症患者です。
ジレッタント様の記事は貴重な情報源になりました。
勝手ながら記事のURLを紹介をさせていただきました。